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指月殿 修禅寺
指月殿

修禅寺について

1200年の歴史とともに

五鈷杵
独鈷杵
奥の院 鳥居と紅葉
馳籠の窟 修禅寺
馳籠の窟

修禅寺より車で十分ほどの場所に建立されている奥之院(正覚寺)は、延暦十年(791)に十八歳の弘法大師 空海が修行したところと伝わっています。

弘法大師は、この地を修行の場と選び、奥之院上の馳籠の窟(かりごめのいわや)で修行を始めましたが、天魔地妖が修行を妨げ、地域住民も煩わす為、弘法大師が天空に向かい、大般若の魔事品(まじほん)を書いたところ、金色の経文が現れ、魔衆は窟に閉じ込められたと伝わっています。

馳籠の窟には、阿吽の滝と呼ばれる滝が流れ、その横には、弘法大師が坐って修行したとされる降魔壇(ごうまだん)があります。

紅葉の季節には、紅葉と大銀杏で境内が彩られます。

奥之院の風景

弘法大師 御修行

延暦十年(791)

五鈷杵
修禅寺本堂 天井画
弘法大師像
弘法大師像

修禅寺は、真言宗の開祖。弘法大師、空海によって開創されました。

修行の為、この地を訪れた弘法大師が、桂川で年老いた父親の患部に川の水を掛ける親子を見かけ、不憫に思い。持っていた法具。独鈷(どっこ)で岩を砕いた所、熱湯が湧き出たと伝わっています(伊豆国風土記参照)。熱湯が湧き出た場所は、現在でも独鈷(とっこ)の湯として修禅寺前の桂川にあり、町の観光名所となっています。

※密教法具は独鈷は(どっこ)。独鈷の湯は(とっこ)と読み方が異なります。

様々な教えや奇蹟で地元の人々がお大師さまに帰依した為、弟子のひとりであった、杲隣大徳(こうりんだいとく)だけがお残りになり、伽藍を建立し、【福地山修禅萬安禅寺】と名付けました。

修禅寺 開創

大同二年(807)

五鈷杵
修禅寺本堂

頼朝の異母弟、源範頼(1150-1193年)は、曽我兄弟の仇討ちを発端とする謀反の疑いをかけられ、当時、修禅寺の塔頭寺院であった信功院(現・日枝神社)に幽閉され、後に誅殺されたと伝わっています。範頼の墓は修禅寺より徒歩5分ほどの所にあります。

頼朝亡きあとに二代将軍となった源頼家(1182-1204年)は、北条氏と比企氏の争いで将軍の座を追われ、この地に流されました。その後、北条家の放った刺客に入浴中を襲われて命を落としたと伝わっています。頼家公の七回忌には、尼将軍と呼ばれた北条政子より、菩提を弔う為に建立された指月殿含め、多大な寄進を受けています。

修禅寺では、範頼公・頼家公とも、年に一度、墓前にて法要を行っています。

頼家と範頼

遡ること平治元年(1160)に起きた平治の乱で、後に鎌倉幕府を作り、初代征夷大将軍となる源頼朝の父、源義朝は平家に敗れ、東国に逃走中であった頼朝は捕らえられました。父・二人の兄ともこの乱の為に命を落としましたが、頼朝は平清盛の継母、池禅尼などの嘆願により死罪を免れ、伊豆国に流されました。長らく流人として生活する頼朝は、この地の豪族、北条時政の娘。北条政子と結ばれます。

治承四年(1180)都で横暴を働く平家打倒の為、以仁王により平家討伐の令旨(りょうじ)が出され、頼朝は御家人と共に挙兵します。

壇ノ浦の戦いなどを経て、頼朝は武家の棟梁となり、朝廷より征夷大将軍を賜ります。

​この時期の修禅寺の記録はありませんが、過去には修禅寺本堂から2キロほど離れた修善寺駅付近に総門があり、そこが修禅寺の入口であったことから、広大な寺領をもった寺院でありました。

源氏と修禅寺

五鈷杵
坐禅

康安元年(1361年)伊豆の守護職であった畠山国清道誓が足利基氏に叛(そむ)いて修善寺城に籠り戦乱が起きたため、戦禍を被り、応永九年(1407年)には大火災で伽藍が全焼し、酷く荒廃しましたが、当時の伊豆韮山城主であった北条早雲(1456-1519年)より莫大な寺領を賜り。延徳元年(1489年)に、早雲の叔父である遠州石雲院(静岡県牧之原市)の隆渓繁紹(りゅうけいはんじょう)禅師を開山として迎え、以後、曹洞宗となりました。

北条早雲からの寄進状などが寺宝として残っています。

開山 隆渓繁紹禅師

開創以来、500年近く真言宗の寺院でしたが、建長年間(1249-1255年)。後に鎌倉の建長寺を開く中国、宋の高僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が来住し、臨済宗に改められ、【大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺】の勅額を賜り、中国にまでその名が広まりました。

蘭渓禅師 来住

現在でも歌舞伎で演じられる【修禅寺物語】

源頼家公が、はかりごとによって腫れあがった顔を、母親である北条政子に伝えるために制作したと伝わっている寺宝の木彫りの面【頼家の面】。明治四十一年(1908年)にこの地に滞在した作家、岡本綺堂がこの面を見て執筆した戯曲です。

明治から現在に至るで、多くの文豪や芸術家に愛された修善寺温泉は、正岡子規や夏目漱石、芥川龍之介、島木健作、後に檀家となる吉田絋二郎などが訪れ、執筆を行いました。

絵師である川端龍子

(かわばたりゅうし:1885-1966)

は当地を愛し、檀家となり、昭和二十七年(1952年)には、宝物殿の天井画を寄贈されました。

禅画で名をはせた丘球学老師が修禅寺住職の時代には、先の川端龍子をはじめ、横山大観や安田靫彦らが訪れ多くの絵を奉納しています。

文豪・芸術家と修善寺温泉

十六羅漢②.jpg
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