鎌倉幕府と修禅寺
頼家と範頼
鎌倉幕府二代将軍 源頼家(みなもとのよりいえ)。そして初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)の異母弟であり、頼朝が鎌倉幕府を開く為に共に尽力した、源範頼(みなもとののりより)。
不幸にも共に、この地に流され命を落としました。修禅寺では毎年、お二人の供養を行っております。
源 頼家
鎌倉幕府、初代征夷大将軍、源頼朝と後に尼将軍と呼ばれる北条政子との間に生まれ、幼名は万寿。
誕生より将軍後継者として育った頼家公は、建久10年(1199)に父、頼朝公が急死、これにより正式に二代将軍となった頼家公は、時に18歳。若い将軍を補佐する為に有力御家人による合議制が敷かれましたが、御家人同士の争いや叔父である阿野全成(あのぜんじょう)を謀反の罪で粛清するなど、幕府の政権運営は不安定なものでした。
そんな中、頼家公自身は病に倒れ、重篤な状態となりました。これを機に有力御家人たちは、朝廷に頼家公が死去したとの虚偽の報告を行い、弟である千幡(三代将軍 源実朝)が将軍職に就く許可を得ます。
その後、病気から回復した頼家公は激怒するも、修禅寺に流され、ほどなくして刺客に命を奪われます。
当時、修善寺の町には、7つの外湯があったと伝わっており、その中の一つ、筥湯(はこゆ)で頼家公が入浴中に命を落としたと伝わっています。長らく外湯は修禅寺前の独鈷の湯しか残っていませんでしたが、平成12年に当時と同じ場所に筥湯が復活しました。
指月殿
亡き息子、頼家公の菩提を弔うために北条政子によって建立されたのが指月殿(しげつでん)です。
指月とは「指月の喩(たとえ)」として残っている禅の経典からとられていると思われます。
指月殿は、伊豆で現存する最古の木造建築と言われ、建立時、北条政子より数千巻に及ぶ宋版一切経が奉納されていますが、多くが散失し八巻のみ現存しています。その中でも北条政子の墨書が残っている第二十三巻、放光般若波羅蜜多経は、静岡県指定文化財となっており、宝物館にて常時展示されています。
指月殿には、本来の禅宗様式では無い、蓮を持った丈六(一丈六尺:全高約4.8m)の釈迦如来像が祀られています。
頼家公墓所
指月殿のとなりに建立されている頼家公のお墓です。
正面中央の石碑は、元禄時代の修禅寺住職が立てたもので、頼家公の墓とされる五輪塔が石碑に後ろに祀られています。
悲劇の将軍として、今でも多くの方にお参りいただいております。
源 範頼
範頼公は、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝公の異母弟。
範頼公の父、源義朝には頼朝、義経、阿野全成などの子がおり、平治の乱(1160)で義朝公と戦った兄たちは亡くなりましたが、頼朝はじめとする幼い子たちは、清盛の継母、池禅尼の嘆願などにより死罪を免れ、それぞれ流罪となりました。
範頼公は、遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)で生まれ育ったために、蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)と呼ばれたと言われています。
平氏打倒のために挙兵した兄、頼朝公に合流し多くの合戦に赴きます。
10年に渡り頼朝公を支えた範頼公ですが、曽我兄弟の仇討ちにおける頼朝公遭難時の発言であらぬ嫌疑をかけられ、当時の修禅寺塔頭寺院であり、現在の日吉神社内に建立されていた信功院に幽閉されそこで自刃したと伝わっています。墓所は修禅寺から徒歩5分ほどの場所に建立されていおり、毎年9月15日には範頼公墓前祭を行っております。
範頼公墓所
修禅寺本堂より、徒歩5分ほどの場所にお祀りされている範頼公の墓所です。
明治25年(1892)にこの地を訪れた歌人の正岡子規は、「此の里に かなしきものの 二つあり 範頼の墓と頼家の墓」と詠んでいます。
令和4年放送の大河ドラマの影響もあり、多くの方にお参りいただいております。